やりたいゲームの種類

3種類ある。

  1. 楽しめることが分かっているゲーム
  2. 楽しめそうなゲーム
  3. 楽しんでたはずのゲーム

1番は主に既プレイである。終わりがない類だったり、終わったけど時間をおいていつかまたやろうと思うものだったりする。また未プレイであっても、プレイしている様子を見たり事前情報によって自分なら気に入るだろうと分かる場合もある。
2番は購入予定のゲームや、積んであるゲーム。なんらかの情報で、少なからず楽しめそうと思うからやりたくなるのであって、やる気がある未プレイのゲームは基本的にここに入るはず。
3番は間違いなくプレイしたが覚えてないゲーム。時間が経てばゲーム体験の記憶は薄れていくものだが、忘れ方にも種類がある。そのうちの一つに、「楽しんでたはずだけど何が面白かったかはっきりしない」形で忘れているものがある。それがこの3番だ。

細部は覚えてないにしても、本当に面白かった体験は印象に残るし、その印象をゲーム体験のワンシーンなり最終的に自分の中に残った所感なりで把握しているものだが、たまにそれがはっきりしないゲームがある。
そして自分の場合、そういうゲームは最後までプレイしたかも覚えてないことが多い。
覚えてない時点で、あまり楽しめなかったんだなと思って「それほどでもなかったゲーム」にカウントして終わり、という人も多いと思う。合理的だし、自分もそうしたい気持ちはある。同じ「ゲームについて思いを巡らす」にしても、無限にゲームは存在するのだからもっとはっきり面白いと思うゲームに費やしたほうがいい。時間は有限だ。
ただ、なぜかそう断ち切れない自分がいる。
1番2番に属するゲームにだけ目を向けていればいいものの、3番にも向き合いたくなるのだ。
積みゲーが減らない減らないと言う割には、この3番に該当するゲームを急にやりだしたりする。しかも、それなりの頻度で。
その先に何を求めているのかがあまり分かっていない。確認する作業といった趣だが、確認してどうしようというのだろう。
はっきりしないのが気持ち悪いと感じているだけかもしれないし、その気持ちすらあまりなく、覚えてない昔のゲームを適当にやりたくなってるだけかもしれない。

それでも理由を考えてみたが、「自分がどう変わったか」を知りたいんじゃないだろうか。あるいは「変わっていないか」。
クリアまでプレイした記憶がある場合なら、改めてプレイした時最後までプレイする気になるかどうかで、昔と好みが変わっていることが分かるし、その過程で昔楽しんでた部分を理解できるかもしれない。
クリアしてないと思われるゲームなら、今やってみると思いの外楽しめて最後までプレイするかもしれないし、そこは昔と変わらず「最後まではいいや」と思うのかもしれない。
「クリアしたかどうか」のレベルで覚えてないゲームというのは20年近くとかそれ以上前にプレイしたゲームだし、それだけ年齢が違う自分であれば今とずいぶん異なる考え方で、ゲームに対する好みや感性も違っているだろう。
それを前提として3番のゲームをプレイしてみることで、「昔から変わらず軸になっている部分」を探したいのかもしれない。同時に、あやふやだった3番に属するゲームを今の自分でもって捉え直すことができて、すっきりする。
この行為をいつまでもやりたいと思うとも限らないので、こういうことをやろうとしてた自分がいたと記録する意味でも、3番のゲームについては書き残すなり大事にしていきたい。